2007-09-11

あれから6年

NYのワールドトレードセンター(WTC)が崩壊してからもう6年になる。

2000年からNYに仕事で行くようになり、2001年は911の7週間前にもNYに行っていた。

その頃は、行くとWTCから3ブロック離れたトライベッカ地区にある、友人家族の住むロフトに泊まらせてもらっていた。3回目ぐらいのNYで、やっとなんとなく街に慣れてきた頃だった。友達の家へ一人で帰る時に、地下鉄から地上に出て、方向がわからなくなった時は、いつも上を見上げて、WTCが見える方向に歩いていった。NY市民にとっても、方向を示す道しるべの役割を持っていた。ただ、WTCのせいで、友達のロフト近辺は、昼間でも暗かった。

2001年7月に訪れた時、今まで近づくことのなかった、WTCに初めて入り、ビルの外でホットドッグを買って食べ、地下でショッピングをした。また、友達がブルックリン・ブリッジ・ウォークに連れて行ってくれ、橋からWTCをバックに記念撮影もした。そして、NYを離れる日、友達の勧めでWTCからニューアーク空港へ出ているリムジンバスを利用した。その時も、タワー#2のロビーの中にちょっと入った。

ニューアークからコロラドに向けての飛行機に乗ったとき、ちょうどマンハッタンが見える窓際の席になった。離陸して、上に昇ると、マンハッタンがよく見えた。街を上から見ていると、マンハッタンが煙に覆われるような映像が頭の中をよぎった。

「この街全体に、火事とか起きたら大変なことになるだろうな。守られるように、祈ろう。」

と、祈った。

2001年9月11日の11pm過ぎに、ルームメートの携帯に友達から、NYが大変なことになっているとメールが来た。ルームメートと早速テレビのニュースを見ると、WTCから煙が上がっている映像が映し出された。友達の家が気になり、すぐにトライベッカに住んでる友達に国際電話した。留守電ではあったが、電話線が通じたので、友達一家の住む場所は大丈夫そうでちょっと安心した。祈っていることをメッセージに残した。

その晩は、ずーっと、テレビに釘付けだった。そして時間が経つにつれて、色々な角度からの映像が入り、あの飛行機の中で、頭に浮かんだ映像と一緒の映像がテレビに出てきた時は、ビックリした。

あの事件の6ヶ月後、2002年1月にNYを訪れ、またトライベッカの友人宅に泊まらせてもらった。その時は、色々な道が閉鎖され、夜になってもグランドゼロは作業のためライトが着き、たえず工事中の音がした。

でも、昼間になって、二つ変わった事を発見した。一つは、高いビルがなくなり、その場所が明るくなったこと。もう一つは、ニューヨーカーがやさしくなったこと。地下鉄で困っていると、以前は見知らぬ顔をされたが、その時は知らない人が、「どうしたの?」と声を掛けてくれた。

事件直後は、近所同士、見知らぬ人が自然に助け合い、いたわりあい、あちこちにコミュニティーができ、支えあい、本当の街のようになったそうだ。友達はアーティストなので、ショックで制作活動ができなくなったアーティストを励ますために、トライベッカに一時的なギャラリーをオープンし、アーティスト達がその事件で感じたことを表現できる場所を提供した。報道では知りえない、住民の生の声を友達を通して知れた。

ビルが崩壊する場面をライブで見たが、信じられなかった。7週間前に自分がいたところが崩れ去った。NY市民にとっては、そして愛する人たちを失った人たちには、信じたくない、ショックなことだっただろう。でも、その映像を見て、飛行機が突っ込んだだけで、あんなにがっしりしたビルが簡単に崩れてしまうものなのか、ちょっと疑問に思った。以前に見たビル解体と同じような崩れ方だと思った。

6年経って、グランドゼロの周りはだいぶ新しくなり、新しい住人も増え始めている。ただ、あの時、事件現場で作業をしていた消防士さん達が、肺の病気で苦しんでいるそうだ。心に傷を負ったままの人もまだまだいる。事件に関しては、マイケル・ムーア監督が作った「華氏 911」のように、メディアの報道とは違う見解もなされ、ネットでもいろいろなサイトが立ち上がっている。事実と真実を、追求して欲しいものだ。メディアの報道、ジャーナリスト達がちゃんと真実を伝えられるように、祈り続けなければ。

911の事件後、NY市民にとって、一つの慰めが残されていた。それは、グランドゼロのまん前にある、ディスカウント・デパートメントストアーの「センチュリー21」。ここはなぜか被害にあわなかった。なので、事件後早くからこのデパートは開き、近くの住民が変わらずショッピングできる所として、ホッとできたそうだ。私も、NYの街の復興に貢献するため、毎回NYに行くたびに、そこで買い物をかかさない。というか、NYの好きなスポットの一つだ。

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