2012-05-28

焼き上がり!



4月末に、先生が焼いてくださり、一気に焼き上がりが出てきた。

これは、もうだいぶ前にろくろで作った黒土のものに、白萩釉を掛けたもの。
黒が透けて、ブルーに見えてとってもきれいな色になった。大満足!



そして、土鍋も無事ひびも入らず、焼き上がってくれた。皆の関心は、果たしてこれで何を作るのかということ。暑くっても、鍋として使えるので、楽しみ。持ち手も、自分にとっては持ちやすいものとなった。
取っ手の部分は、トルコ釉を掛けたのだが、土との相性で、透明感は出なく、マットな感じ。でもこれもいいかも!

これは、頼まれものの表札。初めて象嵌で作ったもの。さっそく送ったら、とても喜んでいただけた。
















これは、2週で作り上げた、大皿。今回はトライアルで、顔料を振りかけてみた。焼き上がりで、果たして色が残るのか、溶けてしまうのかは、焼いてみてからのお楽しみ。

気仙沼・大島

気仙沼・大島の旅は、Hちゃんに久しぶりに電話をしたところから始まった。仕事で気仙沼に行くということで、少し早めに行きたいけど、一緒に行かないかと、一週間前に誘われ、主人とスケジュールに相談し、OKが出たので行くことになった。

気仙沼と聞くと、昔欽どこファミリーの「気仙沼ちゃん」というのが、私にとっては最初に浮かぶ言葉だった。でも、震災の時、地震後に大火災が起こり、物凄い光景が目に映ったのが印象的だった。

一年以上過ぎた気仙沼は、穏やかな、きれいな港だった。


街中も、ほとんど瓦礫はきれいにされていたが、建物はそのままの姿を残していた。


街中を歩いているときは、今自分が歩いている所が、水の中だったと考えても、考えに及ばないほどだった。

今回は、地元の人達の話しを自然な形で聞けた。実際に体験された人達でさえも、まるで映画を見ているようだったと。ただ、3日3晩燃え続けた火は、恐ろしかったという声が多かった。 


そして、仮設で作られている復興屋台や商店街も、建ち始めた。

少しづつ、観光客も戻り始めている感じがした。お昼を食べたお店の奥さんが話してくれたのは、震災前は、磯の香りがしたけど、今はなんか違う匂いがしていると。まだまだ元の海には戻っていないようだ。早く、磯の香りがして欲しいものだ。


                         


気仙沼港から船で20分程の、大島も良い所だった。少しづつ海岸も片付けれられているようだが、まだまだ前のように戻るには時間がいる。

この小田の浜の海岸まで、Hちゃんとぶらぶら散歩し、海で記念写真を撮ろうとしていたら、3人の地元のおじさん達が「二人の写真撮ってやろっか!」と声を掛けて下さった。ちょうど海に、海草の生育を見に来たそう。おじさん達も、震災のことを色々と話して聞かせてくれた。この浜から見えるところに、なんと気仙沼ちゃんが営んでいる民宿「アインスくりこ」が、あるとおじさん達が教えてくれた。ここも被災されて、今年の秋を目指して改修作業中で、トンカチの音が響いていた。復興は始まっているが、悲しみはまだまだ残っている。

まあ、911で一つのビルが破壊されたのに、再建されるまで10年掛かっている。そんなインスタントに全部がすぐに元のようになるなんて、考えるほうが難しいのかもしれない。忍耐とがまん。でも、その中で、たわいもないことで、一緒に笑えるのが、幸いなのかもしれない。

おじさん達は、昆布の卸の仕事をしていて、島の昆布が集まってくる場所に、案内してくれた。そして、ダンボールに入っていた、半端物の昆布・わかめを指差して、「全部持ってきなー。どうせほうっちゃうから。」と、大きなレジ袋を渡してくれた。Hちゃんは、これから仕事だったので、まだしばらく家に戻れないので、私がもらうことにしたが、それにしても多かったので、泊まった宿「アイランドハヤシ」にも半分分けてきた。この宿も、穴場の宿で、気に入った。

嬉しい事に、私達が行ったすぐ後に、札幌の中学生達が修学旅行で、大島に訪れたらしい。震災後初の修学旅行客となったそうな。
                               
家に帰って、さっそくわかめと豆腐のお味噌汁を作ったら、とっても美味しかった。
気仙沼のわかめも有名らしい。

おじさんから、昆布の他に、「GANBAARE」(https://sites.google.com/site/ganbaare/)という、帆前掛け製品を作っているお店のパンフレットもらった。船でまた本土に戻り、気仙沼駅まで歩いていくことにしたら、ちょうど道沿いに、「GANBAARE」のネットショップがあった。製品も置いてあったので、見させてもらった。そこでもお店のご夫妻に震災当時のお話しを聞いた。そこで売られていた、エコバッグが欲しかったのだが、手持ちのお金が少なくなっていたので、後日通販で買おうと思ったら、なんと、6月2、3日に山下公園で行われる、横浜開港祭に出店されるということ!今週末、自転車で行ってぜひ買おうと思う。

今回、初めて気仙沼に行ったが、正味1泊2日の間に、すっかり魅了されてしまった。人は温かく、食べ物は美味しいし、震災の傷後は残ってはいるが、それでもとても美しい街と島だった。また、時間がゆっくり流れていた。

実は、もう今年の夏休みは、気仙沼の大島に行こうと主人と話している。もちろん、青春18切符の鈍行の旅で。 


ひっそり静まり帰ったこの漁市場も、本来あるべき姿に早く戻ることができるように、
天の父なる神様にお祈りした。

2012-05-20

今日はこれから


今日はこれから、船で大島へ。大島といっても気仙沼の大島。実は昨晩、東京で会合に主人と出た後、池袋から出ている「けせんライナー」という、夜行バスに一人で乗って、先程気仙沼に着いた。

これから、昨日到着している、昔の同僚で親友のHちゃんと大島で合流する。明日には横浜へ戻る、小さな旅。

旦那さん、昨日は見送りありがとう!

2012-05-13

いわきでのボランティア



4月26日~30日の3泊4日で、福島のいわき市へ、主人とボランティアに行ってきた。東京駅からバスで約3時間。

いわき市は私は昨年の6月以来2回目。主人は初めてのいわきとなった。宮城県や岩手県などの被災した地域の状況はメディアで入ってくるが、福島は原発の事が主流で、実際どんなボランティアができるのかはわからなかったが、3月末のMちゃんとSさんの結婚式でいわきの人達に会ったとき、来てくれるだけで、嬉しいということだったので、行くことにした。

いわき駅に到着したとき、街は平常に見えた。到着時間が予定より早く、少し時間があったので、駅前のビルの中にあった図書館に入ってみた。主人は市報のようなものを読み、ようやくどこかの港から震災後初めての遊覧船が動き出したことを知った。私も、雑誌に目を通す中、ある女性が、図書館の受付の人に、いわき市あたりで震災で死亡した人のリストを見たいという、要望をしていらっしゃるのが聞こえた。表面は日常に戻ったように見えても、まだまだ復興中だということが伺えた。

昼食後、ボランティアセンターであるミッション・グローバル・センターを持つ教会へ向かった。去年もここで寝泊りして、作業をさせていただいた。昼間だったので、皆さんは作業で外に出ているそうで、センターは静かだった。

友達のIさんがいて、しばらくおしゃべりをした後、せっかくなのでボランティアセンターの掃除を
することにした。皆さん、なかなか忙しいので、掃除とかは後回しになってしまうようで、お手伝いできてよかった。また、掃除をしている時に、教会のご婦人がやってきて、ぽろっと心境を話してくれた。震災が起こった直後は、無我夢中だったが、最近になってようやく自分の心の中が見えるようになってきたそう。そして、私達を忘れないでこうやってボランティアに来てくれることは、ほんとに嬉しいと。夕方はボランティアのための食事の用意を一人でしていた、Dさんの手伝いをした。後で気が付いたのだが、この方は、下記のブログで載せた、sHinチャンネルに出ていた方だった。

夜のミーティングでは、やはり去年来た時よりは、ボランティアの人数が減っていた。

翌日は、私達夫婦がボランティアの人達の食事の当番になったので、買出しや、また、いわき市はものすごく細かいゴミの分別があり、他府県や外国から来ると、とっても理解し難いので、主人がわかりやすい表を作った。メニューも約40名分作ることだったので、あれこれ迷ったが、主人の得意の肉野菜炒めと、味噌汁、スパサラダを作った。大人数のメニューで肉野菜炒めを作る人がいなかったせいか、とっても喜んでいただけた。


翌日は、炊き出しに参加した。広野町という、原発から20~30km県内にあり、避難解除になってはいるが、放射能を心配して、町の多くの人達が仮設住宅に引っ越して来ているところだった。私達が到着した時は、集会所でおばあちゃん達が手芸クラブを行っていた。

さっそくテントを張り、持ってきた大きなお鍋で、カニ汁の準備をした。炊き出しのベテランさん達が手際よく、野菜を切り、私もわたしのできるお手伝いをしていった。一緒にグローバルセンターに滞在していた、アメリカ人の人達は、用意してきたお絵かきセットで子供達と一緒にお絵かきの時間を持った。


広野町の方々とお話しをした時、一時帰宅をした時、避難していた留守の間に、自宅が泥棒に入られ、結婚指輪まで盗まれた事を聞いた。また、仮設住宅の自治体のリーダーは、ボランティアであるが、かなりの仕事量があるため、何度もリーダーが変わり、誰がどこに住んでいるか、まだ把握できない状態にあるということを聞いた。また、町民の間の話題は、広野町の放射能の量やホットスポットがどこにあるのか、無料で配布されているガイガーカウンターの事だった。

今、なぜ仮設住宅で炊き出しが必要かというのは、その場所でのコミュニティー作りのお手伝いだと思う。炊き出しをすることで、家の中にこもりがちな方々が外に出て、人とふれ合うきっかけとなる。

炊き出しの配布が一通り終わり、鍋番だった、通称「おばちゃん」とご飯を一緒に食べた。なんとびっくり、このおばちゃんも、勿来(なこそ)という地域で、被災し、今は県が指定したアパートに移り住んでいるそう。そして、もう一人鍋番だったおじさんも、薄磯という海辺の町の漁師さんで、家も漁船も流され、いわき市に避難された方だった。震災直前に漁船を今までの集大成として新しく作り、いざこれからという時に、船が津波で流されてしまったそう。推測によると、そろそろ流された漁船がハワイに漂着するらしい。ハワイに取りに行けたらいいなと、笑っていた。

このおばちゃんと漁師さんは、避難所にいた時に、ミッション・グローバル・センターの炊き出しを受け、その後、炊き出し隊に加わったそう。誰かのために何かできて、ありがとうと言われるのが、生きる励みになっているそう。特に漁師さんは、家族も津波で流され、今はいわき市の小さなアパートで一人暮らしで、寂しさで一人でお酒を飲むと、かなり量を飲んでしまい、暴れてしまうそうで、このように炊き出ししていることによって、仲間ができ支えられているようだ。

私は今回炊き出しをしたのは、初めてだった。これは、もし東京に大地震が起きた時に、炊き出しをするための訓練かもしれないと思い、段取りをおばちゃんから教わった。野菜は、固いものから切って、どんどん煮ていくこと。大鍋で100食以上は作れることを知ってびっくりした。いい勉強になった。

炊き出しが終わって、ミッションセンターに戻り、大鍋を洗ったりして後片付けをしていたら、40代前半ぐらいの男性2名が、センターから出てきて、話しかけて来てくれた。新しいボランティアの人達かと思いながら話しを聞いていると、一人は浪江町出身の人だった・・・・・この話しは後日続きで・・・・・