2012-05-13

いわきでのボランティア



4月26日~30日の3泊4日で、福島のいわき市へ、主人とボランティアに行ってきた。東京駅からバスで約3時間。

いわき市は私は昨年の6月以来2回目。主人は初めてのいわきとなった。宮城県や岩手県などの被災した地域の状況はメディアで入ってくるが、福島は原発の事が主流で、実際どんなボランティアができるのかはわからなかったが、3月末のMちゃんとSさんの結婚式でいわきの人達に会ったとき、来てくれるだけで、嬉しいということだったので、行くことにした。

いわき駅に到着したとき、街は平常に見えた。到着時間が予定より早く、少し時間があったので、駅前のビルの中にあった図書館に入ってみた。主人は市報のようなものを読み、ようやくどこかの港から震災後初めての遊覧船が動き出したことを知った。私も、雑誌に目を通す中、ある女性が、図書館の受付の人に、いわき市あたりで震災で死亡した人のリストを見たいという、要望をしていらっしゃるのが聞こえた。表面は日常に戻ったように見えても、まだまだ復興中だということが伺えた。

昼食後、ボランティアセンターであるミッション・グローバル・センターを持つ教会へ向かった。去年もここで寝泊りして、作業をさせていただいた。昼間だったので、皆さんは作業で外に出ているそうで、センターは静かだった。

友達のIさんがいて、しばらくおしゃべりをした後、せっかくなのでボランティアセンターの掃除を
することにした。皆さん、なかなか忙しいので、掃除とかは後回しになってしまうようで、お手伝いできてよかった。また、掃除をしている時に、教会のご婦人がやってきて、ぽろっと心境を話してくれた。震災が起こった直後は、無我夢中だったが、最近になってようやく自分の心の中が見えるようになってきたそう。そして、私達を忘れないでこうやってボランティアに来てくれることは、ほんとに嬉しいと。夕方はボランティアのための食事の用意を一人でしていた、Dさんの手伝いをした。後で気が付いたのだが、この方は、下記のブログで載せた、sHinチャンネルに出ていた方だった。

夜のミーティングでは、やはり去年来た時よりは、ボランティアの人数が減っていた。

翌日は、私達夫婦がボランティアの人達の食事の当番になったので、買出しや、また、いわき市はものすごく細かいゴミの分別があり、他府県や外国から来ると、とっても理解し難いので、主人がわかりやすい表を作った。メニューも約40名分作ることだったので、あれこれ迷ったが、主人の得意の肉野菜炒めと、味噌汁、スパサラダを作った。大人数のメニューで肉野菜炒めを作る人がいなかったせいか、とっても喜んでいただけた。


翌日は、炊き出しに参加した。広野町という、原発から20~30km県内にあり、避難解除になってはいるが、放射能を心配して、町の多くの人達が仮設住宅に引っ越して来ているところだった。私達が到着した時は、集会所でおばあちゃん達が手芸クラブを行っていた。

さっそくテントを張り、持ってきた大きなお鍋で、カニ汁の準備をした。炊き出しのベテランさん達が手際よく、野菜を切り、私もわたしのできるお手伝いをしていった。一緒にグローバルセンターに滞在していた、アメリカ人の人達は、用意してきたお絵かきセットで子供達と一緒にお絵かきの時間を持った。


広野町の方々とお話しをした時、一時帰宅をした時、避難していた留守の間に、自宅が泥棒に入られ、結婚指輪まで盗まれた事を聞いた。また、仮設住宅の自治体のリーダーは、ボランティアであるが、かなりの仕事量があるため、何度もリーダーが変わり、誰がどこに住んでいるか、まだ把握できない状態にあるということを聞いた。また、町民の間の話題は、広野町の放射能の量やホットスポットがどこにあるのか、無料で配布されているガイガーカウンターの事だった。

今、なぜ仮設住宅で炊き出しが必要かというのは、その場所でのコミュニティー作りのお手伝いだと思う。炊き出しをすることで、家の中にこもりがちな方々が外に出て、人とふれ合うきっかけとなる。

炊き出しの配布が一通り終わり、鍋番だった、通称「おばちゃん」とご飯を一緒に食べた。なんとびっくり、このおばちゃんも、勿来(なこそ)という地域で、被災し、今は県が指定したアパートに移り住んでいるそう。そして、もう一人鍋番だったおじさんも、薄磯という海辺の町の漁師さんで、家も漁船も流され、いわき市に避難された方だった。震災直前に漁船を今までの集大成として新しく作り、いざこれからという時に、船が津波で流されてしまったそう。推測によると、そろそろ流された漁船がハワイに漂着するらしい。ハワイに取りに行けたらいいなと、笑っていた。

このおばちゃんと漁師さんは、避難所にいた時に、ミッション・グローバル・センターの炊き出しを受け、その後、炊き出し隊に加わったそう。誰かのために何かできて、ありがとうと言われるのが、生きる励みになっているそう。特に漁師さんは、家族も津波で流され、今はいわき市の小さなアパートで一人暮らしで、寂しさで一人でお酒を飲むと、かなり量を飲んでしまい、暴れてしまうそうで、このように炊き出ししていることによって、仲間ができ支えられているようだ。

私は今回炊き出しをしたのは、初めてだった。これは、もし東京に大地震が起きた時に、炊き出しをするための訓練かもしれないと思い、段取りをおばちゃんから教わった。野菜は、固いものから切って、どんどん煮ていくこと。大鍋で100食以上は作れることを知ってびっくりした。いい勉強になった。

炊き出しが終わって、ミッションセンターに戻り、大鍋を洗ったりして後片付けをしていたら、40代前半ぐらいの男性2名が、センターから出てきて、話しかけて来てくれた。新しいボランティアの人達かと思いながら話しを聞いていると、一人は浪江町出身の人だった・・・・・この話しは後日続きで・・・・・

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