2011-06-29

- IWAKI

今回のボランティアは、いわき市にある、「ミッション・グローバル・チャペル」を拠点に行った。教会がベースになっていて、この教会の建物は、以前パチンコ屋さんだったものを改築して、教会堂として去年の11月から使っていたそう。以前の小さな教会堂はもらい火で全焼してしまったそうで、その後すぐに教会に通う人のお父さんが亡くなり、相続として持っていたパチンコ屋を教会の会堂として譲ったそうだ。1Fは、パチンコ台を取り払い、広い空間の中に椅子を置いて礼拝し、2、3Fは、従業員やオーナーの居住地区として使われていたので、沢山の部屋や大きなキッチンがいくつか備わっていた。

そして、3月11日大地震を体験したこの教会に、5日後には海外から救援物資が届き始めた。最初は次から次へと送られてくる、物資をどこへ保管しようかと迷い、1Fの広い教会堂に入れることは最初躊躇したそうだが、祈る中で神様に礼拝堂を物資保管場所として使いなさいと示されたそうで、1Fに沢山の物資を入れることができ、地域の方々に配ることができたそうだ。いわき市でも、最初屋内退避命令が出たそうで、物流も入ってこなくなったそう。

また、別の街へも物資を持って行く事ができたそう。トラックでの配送も、去年の秋から教会の人が配送会社の重役になっていたために、容易にそれを利用することができたそうだ。他にも色々な話しを聞くごとに、何から何まで、311のために神様によって整えられていたということが伺えた。

朝晩、このようにボランティアが一つの部屋に集まり、朝はその日の作業の振り分け、夜は報告をし、祈る時を持った。私がいた2日間の間に、約50名ぐらいの人達がボランティアで来ていた。香川・三重・兵庫・静岡・神奈川・東京・韓国・アメリカ・ハワイ・ブラジル・カナダと国籍は様々。また、職業も、トラックの運転手・主婦・チャーチスクールの先生・看護師・カフェオーナー・ミュージシャン・役者・宣教師・牧師と様々で、年代も30代~60代ぐらいの人達がいて多種多様。アメリカからは大工さんも来ていた。また、瓦礫隊のリーダーの青年は、仕事をやめてボランティアに来ていた。

朝の仕事の振り分けの時、瓦礫撤去、生活支援センターでの仕事(地域の方々が必要なものを取りに来る場所)、そこにあるカフェでの仕事、物資の仕分け作業、ボランティア宿舎の清掃、炊き出し、足湯係りなどあったが、Mちゃんと瓦礫撤去作業に加わることにした。最初お役に立てるのかと思ったが、お役に立つことができる作業だった。

2日間、作業をした場所は、四倉海岸にある、ペンション・レストラン「時計台」という場所。ここも、1Fは津波に流されたが、2Fは無事だった。オーナーご夫婦と一緒に作業をした。大きなものは、前に来たチームによって外に出されていて大きな山になっていた。


そして、今は津波によって流れて来た砂の撤去と、部屋の中にあるものを撤去していくというもの。もう既にきれいになっている部屋もあった。 そして、2Fにあったベッドももういらないということで、岩手の仮設住宅のお年寄りに持って行きたいとお願いしたら、是非ということでこの日トラックに積み込んだ。

ここは、一日目に作業をした部屋。元は厨房だったので、砂の中からスプーンや包丁など出てきた。


この様に、スコップで砂をすくい、


篩いに掛け、中にある物を仕分けして、それぞれのゴミの山にまとめて持って行く作業。私は篩いになるものが何かないかと思って、瓦礫の山から見つけたのは、扇風機の外カバー。写真はとり忘れたが、中々便利だった。人間、いざという時は、何でも工夫して使えるものだと、実感。

お昼は、ボランティアセンターで、朝出るときに持たしてくれたおにぎりをいただいた。塩にぎりに海苔を巻いて食べるものだったが、作業後のおにぎりは本当~に美味しかった。一時間の昼休憩の後、作業が続いた。でも、あっという間に時間が来てしまった。一日目のチームは、韓国人、アメリカ人がいて、私は通訳をしていて、最後に「そろそろ終わりにしましょうか~。」と言ったが、このニュアンス、外国の方には「そろそろ」が伝わらなかった。日本人だと、「そろそろ」と言われると、きりの良いところまでやってしまうニュアンスがあると思うが、英語ではそれが伝わらず、なぜ日本人は作業を止めないんだと言い寄られてしまった。ちょっとした異文化エピソード。

これは2日目に作業した部屋だが、砂がいっぱいあった部屋が、こんなになってしまう。コツコツやっていけば、必ずことは終わる。達成感のある作業だった。2日目は、オーナーさんの奥さんとおしゃべりをしながら作業をした。ご主人の両親がこの宿を始め、2代目でオーナーの息子さん達は会社員勤めをしていたそう。ここをたたんで、内陸のほうでまたお店をやるか、会社勤めにするかは、まだこれから考えるとのこと。地震は半端のない揺れで、これは異常だと思い、すぐに内陸のほうへ逃げたそうで、お二人は助かったようだ。おそらくまさかこんな大きな津波が来るとは思っていなかったのだろう、レジはそのままで逃げられたそうだが、それも流されてしまったが、撤去作業中にそっくりそのまま出てきたそうで、喜んでおられた。まだ、この土地の地権書が見つかっておらず、私たちも地権書と個人の写真が見つかったら、オーナーさんに渡して欲しいと言われていた。

また、この地域の今の話題は、原発の避難退去義援金。30km圏内の方々には100万円が支払われるそうだが、34kmだと何も出ないそう。その線引きもなんとも難しいものだ。ここは原発から34kmなので、きっと風評被害もあるだろうし、お客さん相手の商売だと大変だろう。

作業中に、海沿いをヘリコプターが低空で飛んできた。今も海に打ち上げられる遺体を捜索しているそう。ここの海岸線も地震で変わってしまったそうだ。

このペンションの床にこんな文字が書かれていた。「3/11THE END」と。せつない。まさかこんな事になるとは、思っても見なかったことだろう。この建物は解体されるが、ご主人は毎日、作業が終わると、きれいになった部屋の床をほうきで丁寧に掃いておられた。きっと思い出がいっぱいつまって愛着があるのだろう。私も、できればもっと滞在して「時計台」での作業が終わるのを見たかったが、それはまた次なるチームに任せた。

今回、この歴史に残る大震災を報道ではなく、自分の目で見て感じ、そこに住む人達から実際に色々な話しを聞くことができたのは、本当に良かった。メディアの映像はセンセーショナルに撮られるが、実際行ってみると、もちろん大変な事が起こってしまったと感じるが、でも、そこにはまだ命が続いているし、生活が続いていることを感じることができた。

また、そこにいる人達に寄り添い、少しでもお手伝いできたことも感謝だった。オーナーの奥さんが、テレビとかで色々報道されているから、わざわざ来ることになり、申し訳けないとおっしゃっていたが、こんな時はお互い様だとお話しした。あんな作業をオーナーさん達だけでしていたら、希望もなくなってしまうと思う。近くにある昆布工場の瓦礫の撤去作業も、グローバル・ミッション・チャペルのボランティア隊によって、最近終わったそうで、そこの工場主は、最初はもう廃業しようと思っていらしたそうだが、きれいに片付いた工場を見て、もう一度工場を再建してみようかと、思い始めていらっしゃるそう。なんとも嬉しい話しだ。でもまだ人手がなくて、誰の手もかりずに作業している人達も大勢いると聞いている。

東京に戻り、電車に乗った時に、東京の街が普段の生活に戻っていることを感じた。まだまだ東北での復興作業はたんとある。色々な形の作業があるので、ぜひ機会があればお手伝いに行かれることをお勧めしたい。実際に、子供さんなどいると行けない主婦でも、まだまだ支援物資は必要とされているところもあるので、物を送ったり、自分の街に被災してきている方々のボランティアを必要としている所もあるので、調べて参加してみるのも手だと思う。そして、忘れないように、東北の復興の事を話題にすることも、大切な事だと思う。

主人とも、今度は一緒に行ってお手伝いしたいねと話している。

2011-06-15

IWATE -

今回のボランティアの旅は、5月末にMちゃんと久々に会ってお昼を食べながら、彼女が行ったボランティアの話しを聞きながら、もし次回行く機会があれば是非一緒に行きたいと話したところから始まった。

行くぎりぎりまで、車の手配など最終決定にならなかったが、全てが整って行くことができた。感謝だった。

まず、9:30pm東京駅発のバスに乗った。今回は強行軍であったので、行きのバスではちゃんと仮眠を取ろうと思いつつ、やっぱりMちゃんとのおしゃべりに花が咲いてしまった。でも1時間ほどうとうとして、いわき駅に0:30am頃に着き、そこで岩手の大槌町まで行く8名のメンバーと落ち合い、車に乗り換えて夜中の1am頃にいわきを出発した。

私は今はペーパードライバーになってしまっているので、今回はドライバーとしてではなく、助手席で運転者とのおしゃべり担当にかってでた。途中何回かサービスエリアで休憩をし、目的地周辺に着いたのは、朝の7:30amぐらい。朝マックを皆で食べ、いよいよ被災地へ入って行った。

少し走ると、突然風景が変わっていく。津波が到達した場所と、ぎりぎりまぬがれた線が見える。人の運命というものを感じた。人にはその運命はコントロールできない。

まず、大槌町の人達の避難所の一つに立ち寄った。この避難所は地区センターのようなところを利用していて、比較的小さな避難所だそう。被災当初は、中々支援物資も届かず、一日一食で過ごしていたそう。被災者の人達は「私たちは見捨てられている」と言っていたそうだ。それを教会の人が聞き付け、物資を届けそのことを知らせることによって、ようやく色々な物資が届くようになったそう。そしてついには、AKB48やEXILEも訪問に来たということ。

私達が着いた時は、そこの避難所の方々は、ようやく近くに仮設住宅ができ、鍵をもらいその日から、荷物などを移し始めたところだった。また、別の場所では衣類の配給バザーがあり、そちらに出掛けている人も多く、あまり人がいなかった。そこで、仮設住宅に連れて行ってもらうことにした。



テレビでも見た光景。小学3年生の時、学校の校舎の立替で、プレハブ校舎で一年間過ごしたことがあり、あの時、夏は暑く、冬は寒く、隣の教室の音が良く聞こえてくるのを思い出した。プライバシーができ、スペースに少し余裕ができたのは良いのだろうが、本当に大変な生活になるのだろう。

そこでも、さほど人がいなかったが、いわきから持っていった、ツナ缶やトイレットペーパー、ペットボトルの水、菓子類などお渡しした。これらの物資は、香港や韓国から送られてきたものもある。





そして、Mちゃんが前回行った時に会った、女の子と美容師さんごっこや、Mちゃんが持っていった絵本を読んで、しばらく遊んだ。その女の子と話しながら、「兄弟はいるの?」と聞いたら、ちょっと淋しそうにいないと答えた。本当に一人っ子なのかも知れないし、もしかすると津波で亡くなってしまった兄弟がいる可能性もあると、ふと思った。そこまで聞く勇気はなかった。

しばらく仮設住宅のところで過ごし、また避難所に戻ると、お昼ということもあって、人がだいぶ帰ってきた。Mちゃんは、前回会ったおばあさんとまた会うことができ、そのおばあさんと祈る時も持てた。そのおばあさんの今の願いは、3Lの夏のズボンが欲しいということ。色々洋服は救援物資で送られて来るが、大きいサイズは中々ないようだ。


仮設住宅での願いは、老人の方々のために、ベッドが欲しいということだった。電化製品は支給されるが、ベッドはない。実はこの二つの願いはもう既に聞き届けられ、次回チームが行く時に、持って行く事ができる。



避難所でも、持ってきた支援物資を渡し、そこを去ろうとした時に、その日の昼食の炊き出しであった、モスバーガーのハンバーガーとチキンが余っているので、チームの皆さんでどうぞといただいてしまった。感謝なことだ。避難所を後にし、海沿いの民宿を訪れることになった。そこは海から20mぐらい上にある場所だが、1Fは津波で流されてしまい、今はご夫婦で2Fに住んでいらっしゃった。どんだけの津波の高さが襲ってきたのだろうと、想像できないくらい、今は海は眼下にあった。息子さんの一人は横浜に住んでおられ、もう一人の息子さんは消防団で、津波で流されてしまったそうだ。Mちゃん達は、前回来たとき、ここの民宿に泊めさせてもらい、また戻ってきたことをご主人は喜んでおられた。流されてしまった敷地に、前日ひまわりの苗を植えたそう。夏になったら、大きく元気に咲いてくれて、見る人に励みになればと、明るい笑顔で話しておられたのが、印象的だった。



そして、2pm前には、その場所を離れ、またいわきへの岐路に向かった。海沿いを走っていったので、街々には、がれきが積まれていたり、所々で、臭いもした。まだまだ手付かずである場所が、多々あった。国会では政権のことで、バタバタしているが、そんなことをウダウダしている場合ではないと思った。



ある場所では、橋が渡れずに、迂回しないといけない場所もあったりして、いわきに戻ったのは10:30pm。岩手がこんな遠いとは思ってもみなかった。自分にとっては、初めての岩手だったが、父が独身時代に岩手の松尾鉱山で経理の仕事をしていて、楽しそうな写真が残っている場所でもあったので、一度は行ってみたいと思っていた場所だった。こんな形で訪れるとは思ってもみなかった。岩手の人はいい人達が多かった。

2011-06-14

ただいま

無事福島から戻った。運転手のMちゃんが、かなりがんばって運転してくれて、いわきから東京駅まで、2時間半で到着!

今日も、昨日のペンション・レストランの時計台での作業を終えてから、別の場所で作業をしていた、一緒の車で帰る人達を宿舎で待ちながら、少しゆっくりした。

東京に戻って、東京が普通の生活に戻っている空気を感じた。今回のまとめはまた後日…

2011-06-13

今日の作業

今日は福島の四倉海岸にあるペンション時計台の瓦礫の撤去作業ちゅう。

瓦礫を撤去しないと、市で解体してもらえないそうです。10名のチームで、韓国人、アメリカ人もいる国際チームです。

午後も4時まで地道な作業が続きます。

2011-06-11

今日はこれから

久々のブログ更新。

今日はこれから、東京駅でMちゃんと待ち合わせて、夜行バスで東北へ。Mちゃんが何度か行った、いわきの教会を拠点としたボランティアに、一緒に行かせてもらうことになった。いわきに夜中に着き、そこでいわきの教会のチームに合流し、車で岩手の大槌町に行って、必要なお手伝いをする。今の予定では、避難所から仮設住宅への引っ越しのお手伝い。でも、急に別な手伝いになるかもしれない。

主人もボランティアに行きたいそうだか、タイミングがあわず、今回は私が代表で。東北の方々のお手伝いができたらと思うのと、報道を通してではなく、自分の目で色々と見ることができたらと思っている。

主人が東京駅まで、荷物を担いで見送りしてくれる。背中と腰には、ピップエレキバンを貼り、旅の準備はOK。

無理せずに、お手伝いしてきま〜す。更新は期待しないで下さい〜